大館要造から学ぶ、表現としての言葉の独立性 |
それにしても、昨今の日本言論界を騒がせている「にょ」や「でつ」に代表される特殊語尾ブームであるが(例示がやや古いのはご勘弁願いたい)、大館同志の「でえっす!」には到底適わないね。
共産勢力の南下から日本を守る大館要造氏
前述したような語尾は、商業性に基づいた、予め広く使われることを前提として作られた、稀釈されてこそ活きる言葉だから、俺が今言っている否定は的はずれではある。だけど、俺が求めているのは、そんなお手軽なものじゃないんだ。「でえっす!」のような、とても真似出来ない、その人にしか使用を許されていない言葉なんだよ。一人歩きすることなく、発信者から離れること無く、何時までも留まり続ける強度と融通の利かなさを持つ言葉こそが、俺は大好きなんだ。 それは、伝達を目的として使用される”言葉”というツールとしては失格なのかもしれない。だけど、表現行動として発せられた言葉としては、この上なく幸せと言えるのではないだろうか。本当に人の記憶に残り、心を動かしうる言葉は、普遍性を持ってはいない。それは、マイノリティー/マジョリティーのくだらない二元的な世界とは完全に別の世界にあり、独立し、全ての人間に何かを強く訴えかけてくるものだ。 そして烈士作品は、どのページを開いてもそうした表現に溢れている。これが、俺が烈士についていく大きな理由の一つだ。メリークリスマス!
※男組
2002年12月25日 |