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大館要造から学ぶ、表現としての言葉の独立性


  メリークリスマス!街行く恋人達を尻目に、俺は「男組」(※)を片岡のような姿勢で読み、男の何たるかを学びつつ、更けていく聖夜に想いを馳せることにするよ。

 それにしても、昨今の日本言論界を騒がせている「にょ」や「でつ」に代表される特殊語尾ブームであるが(例示がやや古いのはご勘弁願いたい)、大館同志の「でえっす!」には到底適わないね。


共産勢力の南下から日本を守る大館要造氏

全体図



 俺は何も懐古主義者ってわけじゃないけど、今現在使われている特殊語尾には、強度が無いよな。簡単に誰でもコピーして拝借できるような言葉には、市民権はあっても独立性が無い。

 前述したような語尾は、商業性に基づいた、予め広く使われることを前提として作られた、稀釈されてこそ活きる言葉だから、俺が今言っている否定は的はずれではある。だけど、俺が求めているのは、そんなお手軽なものじゃないんだ。「でえっす!」のような、とても真似出来ない、その人にしか使用を許されていない言葉なんだよ。一人歩きすることなく、発信者から離れること無く、何時までも留まり続ける強度と融通の利かなさを持つ言葉こそが、俺は大好きなんだ。

 それは、伝達を目的として使用される”言葉”というツールとしては失格なのかもしれない。だけど、表現行動として発せられた言葉としては、この上なく幸せと言えるのではないだろうか。本当に人の記憶に残り、心を動かしうる言葉は、普遍性を持ってはいない。それは、マイノリティー/マジョリティーのくだらない二元的な世界とは完全に別の世界にあり、独立し、全ての人間に何かを強く訴えかけてくるものだ。

 そして烈士作品は、どのページを開いてもそうした表現に溢れている。これが、俺が烈士についていく大きな理由の一つだ。メリークリスマス!

 

※男組
 70年代に週刊少年サンデーで連載された、原作・雁屋烈士、作画・池上遼一の大傑作。近日、作品紹介を行う予定。

 

2002年12月25日