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(-ω-)

 勝つのはとても面倒くさいので嫌なのですが、負けると生きていくことすら困難になるので困っています。勝つのは、とても疲れる。勝ったあとも、とても疲れる。勝つたびに、僕の弱い心が痩せ細っていくのがわかります。「疲れるきゅう…(-ω-)」と言っているのがわかります。ごめんねマイハート。

 というか、嘘です、すいません。勝ったことなんてありません。そもそも中流家庭生まれ商業高校卒資格ゼロ、バックボーンゼロ、金ゼロ、能力欠如の”勝”のための要素なんて何一つ無いような僕に、勝った経験なんてあるはずもないです。0勝全敗です。僕は生まれながらにして勝っているような身分には生まれていませんし、ほどよく幸せに生きてきましたので、劣等感や悲惨な家庭環境などのマイナス要因をバネにして這い上がるなんてことも出来ません。僕には何もありません。素敵です。僕には何も無いのです。僕は素敵だ。なので、勝利の美酒というものの味を知りません。別に知る必要を感じて無いので、このままでいいです。幸せです。

 ですが、どうも「生きてくことすら難しくなる」という理由から、負けるわけにはいかないようです。社会さんが許してくれないらしいです。死ぬのは嫌なので、もっぱら負けないための方策に奔走している人生です。あまり見栄えの良いものではありません。しかし、惨敗はしないように生きてきました。ちょこちょこっと、簡単に挽回できるように負けてきました。0勝全敗ダメージ無しです。少なくとも、僕はダメージを受けていません。あと3ヶ月くらいで22歳になります。不満は無いです。悩みといったら、たまに公共料金が払えなくなることと、朝起きたくないことくらいです。あとはネット環境がもうちょっとだけ充実してほしいな。ADSLひきたいな。

 あと、本当は勝ったことあるんですけど、なんか怖いので勝ちを崩してきました。勝つと、立場とかプライドとか理由とかが発生するので、それが怖い。いらないです。不要です。勝ちを崩す方法は、他人に功績をそれとなく譲る、勝利を相対化させる、成功直後に失態を犯すなどです。先人達は「負けたほうが経験になる」「負けて負けて負けてから這い上がれ」などと言ってきていますが、冗談じゃないです。一敗地にまみれた状態から飛翔するだなんて、そんな疲れそうなことができるわけありません。いい加減、歴史上の偉人たち引き合いにした精神論は勘弁してほしいです。早く、島耕作やサラリーマン金太郎のようなスーパー上司に出会いたいものです。

 ちなみに「勝ったことがある」ってのはたぶん、僕の思い込みです。レベルが低い僕の脳が「0勝のまま文章を終わらせるのはかっこ悪いよ、たけだくん」って言ってきたんだと思います。たけだくんかわいそう。哀れ。同情してください。

 

フィッシュマンズ

 僕は、お金が無くても裏切られてても刺されそうになっても、たいていのことは「まあ仕方ないなあ」と自分の中で割り切れるっていう性質の人間です。刺されるのは嫌ですすいません嘘つきました。それはともかく、疲れることが何より嫌いなんでこうなってしまったと思うんですが、ラクなんで気に入っています。気質なのか性質なのかキャラクターなのかは知りません。そんなんですので、特に心乱れることもなくへらへらと生きてきました。

 ですが、けど、好きな人との死別だけは割り切れませんでした。仕方なくありませんでした。へらへらしてられませんでした。例えば僕は、そのうちまた会えるでしょう、という、楽観なのか他人への無関心なのかよくわからない前提の元、1人でいることを好みます。人に会わなくても平気でいられます。しかし死別は、その前提をいともあっさりと壊してきやがります。もう、会えない。「またね」が届かない。それは、とても悲しいです。

 フィッシュマンズの佐藤伸治さんは、1999年3月15日、33歳で他界なされました。僕は生前の佐藤さんにお会いしたことは勿論、肉眼で見たことすら無いのですが、フィッシュマンズというバンドがとても好きだったので、訃報を聞いたとき、とても悲しかった。不特定多数の人に見られるという前提であるテキストを書いてアップする以上、「悲しい」だなんて直接表現を使わずに、描写を加えるなり比喩するなりするべきなのでしょうが、僕にとっての”死別”とは決して悲しい以上の何かには成り得ません。だから、それに技巧をてらし良く見せようだなんて気にはとてもなりません。それはまるで、死を不気味に飾り立てているような気がして、とても。

 僕は、誰かの死に浅薄な物語を乗せようとする人が嫌いです。偉大な個人の死を大きな視点からとらえ論じることは必要なことだとは知っています。ですがそれは僕の役目ではないので、僕はただ、悲しいなあ、残念だなあ、人の死を売名行為に使ってんじゃねえよ、嫌いだ、と文責をあまり負わない場所から個人的にうだうだ言うだけです。「佐藤伸治には早世が似合った」とか言う奴には死んでほしい。好きじゃない人や知らない人の死はどうでもいいです。

 悲しいことは嫌です。誰かが死ぬのは仕方ないことなんだろうけど、僕は、悲しいことは、嫌です。

 

 

マンガ

 大量生産大量消費という、僕たちが育った時代に燦然と輝くスローガンにもっとも迎合されたポップカルチャー。

 マンガが発見してくれた、使い捨て行為の素晴らしさと、使い捨て行為と人間気質とのフィットは、もっと評価、賞賛されてしかるべきです。ビジネス面から見た市場規模と、消費者面からみた手軽さは、まさにポップカルチャーと呼ぶにふさわしい。コンビニで230円で買われて捨てられて再度路上で100円で売られる程度のレベルのものが、我々人類には丁度よいのです。

 そしてインターネットも同じく、使い捨て行為の素晴らしさを説くメディアであります。気にくわなければ戻るボタンを押せばいいのだし、飽きたら接続を切断すればいいのです。ここではなんと名前(=存在)すら可変です。しかもありえない容易さと速さをもって可能となります。なんという安っぽい。なんて適当な。とても素晴らしいです。

 さらに素晴らしいことに、マンガもインターネットも、才能と技量、天運さえあれば一瞬にしてビッグビジネスへと変貌を遂げるのです。印税やイーコマースの偉大さはみなさんもご存じのことでしょう。その資格を得るには、消費者であると同時に供給者となることができる才能が必要ですが、チャレンジする価値は存分にあります。クリエイティブの立場になると、途端に発狂パーセンテージが跳ね上がりますが、そんなことは瑣末です。やすっぽくお金を稼げるのです。理想的ではないですか。

 加え、僕たちが欲しがってやまない他人からの羨望、賞賛をも得ることができるのです。金、名誉、権力、うつくしい異性。つまり、競争の根幹理由として有史以来君臨し続けている「優越感」を得ることができるのです。どうですか、素晴らしい。おそらく「生きること」より「優越感を得ること」のほうが強い。だからみなさん、クリエイティブにベクトルを向けるべきだ。すべて手に入ります。1億総表現者化だ。全員発狂してしまえ。発狂国家の誕生だ!

 今日はマンガというメディアとウェブというメディアの相性の良さと素晴らしさ、その可能性と希望について書くはずだったのに、こんな破綻した文章と内容になってしまったので時計台で12時の針に挟まれて死にます。明日はペリカのゴート札をつくります。

 

生きる(根本敬 著)

 滅入った。こんな本、読まないほうがいいです。

 このマンガは、中年サラリーマンである主人公の村田藤吉さんとその妻、母、息子、娘の5人家族が織りなす日々を綴った日常マンガです。村田さんは別に何か悪いことをしたわけでもないのに、日々イジメ、無視、恐喝、とばっちり、事故死などの酷い目に常に遭っており、家族も所属するコミュニティでそれぞれ酷い目に遭っています。一家が酷い目に遭うシーンは数あれど、僕を特に滅入らせたシーンは、学校の授業でローマ字を習った娘が休み時間に「やーい、ビー・ユー・ティー・エー(B・U・T・A)」と罵られるのですが、娘は頭が悪いため自分が何と言われているのがわからない、というところでした。村田さん一家は遭難死、息子の自殺、一家心中等の悲惨な末路だらけなのですが、誰も死ぬわけでは無い、娘が致命的に頭が悪いというシーンが、そんな悲惨な末路より僕を滅入らせました。他の家族も、似たような目に遭っています。否、そのような目にしか遭っていません。別に何か悪いことをしたわけでもないのに。

 しかし、村田さん一家は酷い事象に対する抵抗も反論もろくにせず「仕方のないこと――」と苦しみながらもそれを受け入れてしまうのです。嫌がりはするのですが、抗う術を知らないために受け入れるほか選択肢が無いのです。また、村田さんとその一家は全員、外見的にまったくぱっとせず内向的で自己主張が全然できず、周りの空気が読めず、やることなすこと裏目に出るという共通の特性を持っています。それが酷い目に遭うサイクルを加速度的に早めていくのですが、それは村田さん一家の特性であり気質なので抗うこともできず、ましてや直すことなどできるはずもなく、一家はただただ酷い現実を受け入れていくことしかできないのです。というか、そもそも、自分たちが何故こうも酷い目に遭うのかの理由、改善策を考えるだけの頭が村田さん一家にはありません。そんな村田さん一家に降り注ぐ酷いストーリーが、根本敬の下手であるがゆえにリアルで生理的不快感をもよおす絵で描かれる。本作はそういう作品です。

 作品説明を淡々と、描写もせずにストーリーの詳細も伝えずにスペクタル性を極力排除して書きましたが、それは僕がこの作品について詳しく書きたくなかったからです。この程度の文章ですら書いてて気分が悪くなってきました。断片的な文章が好きな人間で本当によかったです。もし僕が描写が好きな人間だったら、文字コミュニケーションのディディールに凝らずにはいられない人間だったら、そしてその能力と技術、才能を持ち合わせていたなら、このテキストを書いているときになんらかの精神的、身体的変調をきたしていたかもしれません。今までに絵、映画、小説、マンガなどの様々な表現形態に触れてきましたが、そのなかで根本敬の描く絵と話が、最も僕を不快にさせました。まったく滅入ります。

 鶴見済が「”悪いことをする”と”酷い目に遭う”はほとんど無関係なんじゃないか?」と言っていましたが、根本敬はそれが適用される人物、状況を描くことに関して並ぶものは皆無なのではないでしょうか。そんなもん描かなくていいです。僕は恐らく、もうこの本は読みません。

※追記
嘘です、月一くらいで読んでます。死ぬほど面白い。

 

日本の心の闇

 今日の帰り道、駅のホームで、多分いじめっ子といじめられっ子の間柄なのだろうけど、二人組の高校生を見た。久方ぶりに見る、厳格かつ絶対的な学園ヒエラルキー制度の理想形を横目で伺いながら、懐かしき昔日の高校時代を思い出していると、突如、週末はKANIジャージでバキバキにキめてそうな風貌のいじめっ子が、バスケの時間はダンク台になっていそうなデザインのいじめられっ子に六波返し(※)を喰らわせた。
 即時、ダンク台は膝を崩し、うなだれる。
 生まれて初めて殺人拳を眼前にて目撃し慌てた私は、「えっ、頭の縫合が!」と叫んだ。大変である。死んでしまうではないか!
  たとえ東京ミュウミュウでダンク台な見ず知らずの他人であろうと、近距離で人死にを見てしまうのは夢見が悪い。仕方なしに、私は仕事で疲れた身体を無理矢理動かし、名も知らぬダンク台の元へ駆け寄ろうとした。
  すると、ダンク台は何事も無かったかのように、ひょこりと立ち上がったではないか。そう、無事だったのだ。死んではいなかったのだ。むしろピンピンしているようにも見える。だが、やはり脳に少なからずの損傷を受けたのであろう。ダンク台はKANIを見上げながら(だが決してKANIとは目を合わさずに)ムヒムヒ言っている。接近し分かったのだが、今日は7月にしては涼しいにも関わらず、彼からは大量の発汗が見受けられた。恐らく、死を垣間見たことによる冷や汗なのだろう。途端に私は不快になった。
  ともあれ、多少の障害が残ったものの、事件の平和的収束に私は安堵した。平和が一番である。だが同時に、私は一つのことに気付いた。”何事も無かったかのように”ダンク台が立ち上がったということは、つまりそれは、彼がKANIに暗殺拳でもって攻撃されるのは、いつも通りの、ごく日常的な出来事であることの証左なのではないか、ということだ。
 パンチやキックなら兎も角、六波返しのような特殊な技をかけられたら、自分が何をされたのか分からず、普通はある程度の驚きと混乱を起こすはずである。ダンク台にはそれが一切無かった。まるで、”ホームに目的の電車が来たから乗った”のような自然さで、”技を喰らったからよろけ、立ち上がった”のだ。良く見れば、ダンク台の目には諦観が漂っているようにも感じる。その目は、現実の放棄なのだろうか。
  恐らく、彼はバキに出てくる技を毎日のように受けているのだろう。今のところは、六波返しや握撃のように、素人腕では本来の効力を発揮しない技をかけられるだけで済んでいるようだが、全ての一旦始まってしまった物事は、収束へ向けエスカレートしていくのが定めだ。半年後、ダンク台は重いトロッコを引かされているのかもしれない。凍土を掘るよう命令されているのかもしれない。そして最後に待っているのは、……マックシング(※)だ。まだ若いのに、若さとは希望に満ちあふれているはずなのに、だ。それは、あまりにも不憫ではないか…。 そう考えると、私は意図せず、目頭が熱くなっていくのを覚えた。
  このような陰虐な仕打ちが日常的に行われ、平然と罷り通ってしまう現実。私は、日本の心の闇が発露する壮絶な現実を目の当たりとし、暗澹たる気持ちになりました。お・し・ま・い。

 

※六波返し
 手を谷啓の形にした後、敵の頭頂部を天から叩きつけるように強打することによって頭蓋骨の平面間接を外してしまうというオカルト技。愚地独歩が時折思い出したように使用することで有名。

(※)マックシング
 ドーピングの過剰摂取の末に待っている副作用。死ぬらしい。

(参考文献 「グラップラー刃牙」板垣恵介著 秋田書店)

 

世界マンガ会議

 箱根で開催中の「WMC(世界マンガ会議)」では、現在、世界各国からその道の権威、大家が集まり、マンガ界のワールドスタンダードを決める議論が行われています。

 まず最優先事項として議題に挙がった「世界で一番面白いキャラクター」ですが、どうやら昨日未明に決定した模様です。WMCの発表によりますと、『会長(カイジ)』 『班長(カイジ)』 『澤井(涯)』 『烈 海王(グラップラー刃牙)』 『伝統派空手の栗木さん(グラップラー刃牙)』 『栗田ゆう子(美味しんぼ)』 『大南牧場長(美味しんぼ)』 『ラーメン三銃士(美味しんぼ)』 『岡田斗司夫(評論家)』 『南方熊楠(てんぎゃん)』 『岩原都知事(アテルイU世)』 『キユ(漫画家)』 『水島新司(漫画家)』 『雁屋哲(原作者)』 などの並み居る強豪を押しのけ、『不吉霊三郎(ドカベン)』が世界で一番面白いキャラクターの栄冠を手にしたとのことです。

 早速受賞式に取材陣として参加してきました。産みの親である水島先生を上回る得票数を獲得しての受賞ということで、不吉選手はその栄光に、水島先生は産みの親としての喜びに、それぞれ感涙に耐えないご様子でした。ご両人の感慨の深さは計り知れません。ペナントレース中ということで残念ながら不吉選手は授賞式には出席できなかったため、代わりに水島先生がトロフィーを受賞しました。これまでに、「野球の基礎を作ったのはワシ。完成させたのもワシ」 「送りバントは諸刃の剣やで…」などの数多くの名言を残してこられた水島先生は授賞時の壇上でも、「不吉は、プロ野球に『呪』というまったく新しい要素を持ち込んだ偉大なキャラ」「相撲が落ち目の今、野球こそを国技にするべき」「立法、行政、司法に”野球”を加え4権分立とすれば、日本は法治国家として世界に認められる」などの仰天発言を繰り返すと同時に必殺ギャグであるコマネチを連発するなどの水島節を炸裂させ、会場を沸かせていました。

 審査委員長のあかほりさとる先生は「『カイジ』第二部第一話の会長の預金自慢も素晴らしかったが、不吉選手の、試合中に起こった全てのアンラッキーイベントの責任を無理矢理負わされているにも関わらず不適な笑みを絶やさない不屈の精神に惚れた」とコメントしています。フランス代表のジダンさんは「僕は栗田ゆう子さんを推したんだけど、あかほり先生に「君、あれは『面白い』んじゃなくて電波なだけだよ」って諭されてさ。ああなるほど、って(笑)」というコメントを残し本国に帰られました。

 会議は開催地を日光に移し、次のテーマである「作者の勘違いが甚だしいマンガ」を議題に、審査員を一新した後、19日から再開される模様です。

 

不吉霊三郎さんプロフィール
 信濃の酒造り大学(?)を卒業した後、オリックスブルーウェーブへ入団。造った酒を仰木監督に1ページに渡り褒められるという快挙を成し遂げる。「酒造りに比べたら野球なんて簡単だ」という発言からも、彼の底知れない器量を伺いしることができるだろう。
  彼が試合に出ると、なんかイレギュラーバウンドやデッドボールが増えるらしい。最近では、王監督が「不吉からオーラが出てるぞ」という発言をし、バッティングコーチに心配されるという事件が起こったのは記憶に新しい。